会社員ならば、仕事を通じてさまざまな「課題」に向き合っているはず。その課題は、組織や業界が抱える問題か、はたまた自分自身の心理的な障壁かもしれません。
外科医の石井洋介さんは医療業界で働きながら、難しい課題をユニークな手法で解決してきました。「コンテンツを使った集客プロモーション」「ゲーム開発」など、分野横断的なプロジェクトに挑戦し、結果を出し続けています。
そんな石井さんも、課題を解決するにあたって、見知らぬ世界に飛び込んだり、「偉い人」を動かしたりするなど、数々の困難を乗り越えてきたといいます。
今回、さまざまな課題と対峙する二十代に向け、石井さんの一風変わったキャリアを紹介しながら、課題解決の方法や、課題解決によってキャリアを作っていく「はじめの一歩」をまとめます。
石井洋介と申します。
外科医としてクリニックを営みながら、日々患者さんに向き合っています。その傍ら、課金する代わりに排便を報告すればガチャが回せる「うんコレ」というスマホゲームを作りました。
今回は「未開拓な分野にチャレンジして、課題を解決するための一歩」というテーマで、私の一風変わったキャリアを振り返ってみたいと思います。
医療業界は歴史も古く、巨大。だからこそ、既得権益者も多く、新しいことを始めるハードルは高い。偉い人からの圧力や、周りの冷たい視線に耐える必要もあるでしょう。
そんな環境で新しいことに挑戦し続けてきた自分の知見や経験が、ほかの業界の方々に役立ていただけるのであれば、大変うれしいです。
自分の中の課題を見つけ、解決する 〜環境を変えて「小さな成功体験」を積み上げる〜
プロフィールだけ見ると、「うんことゲームの好きな医師」という印象しか受けないと思いますが、僕が「うんこ」を背負う理由は、決して「うんこが好きだから」ではありません。十代の頃から「うんこ」に人生を翻弄されてきた実体験が原点となっています。
高校一年生の時に潰瘍性大腸炎という難病に罹りました。大腸に原因不明の炎症が起こり、粘膜に潰瘍ができてしまう病気です。寛解と増悪を繰り返すことが特徴で、状態がいい時は普通に生活できるのですが、悪化すればどこでもお腹が痛くなります。トイレに駆け込むのが間に合わなかったことも多々ありました。
その影響もあって、高校時代は学校へ行くのも億劫になりました。
病状が急変したのは19歳の時。緊急治療も効果なく大出血をしてしまい、そのまま緊急手術。大腸を全摘出し、人工肛門状態となりました。
人工肛門は二度と閉じられないので、障害者申請をしてくださいね。
そう病院から伝えられ、絶望の中にいた僕を救ってくれたのが消化器外科医でした。無事、人工肛門閉鎖の手術を受けることができたのです。
「いつか自分を手術してくれた先生の下で働きたい」
この出来事をきっかけに、僕は外科医を目指すようになりました。
大学生活への期待に胸を膨らませながらネットで情報を集めていた時、「外科医に必要なのは体力とコミュニケーション能力」という、絶望的な一文が目に飛び込んできました。
まともな青春を送らず、人と話すことに恐怖心を感じていた僕にとって、どちらも著しく欠けた能力です。ただ、大学に入ったら「貧弱な自分を変えたい」とも思っていました。
そこで、思い切ってラグビー部に入部し、学園祭の実行委員にも名乗りを上げました。何度も怪我をしましたし、順風満帆な大学生活を送れたわけではありません。
ですが、この頃の経験があったからこそ、少しずつ理想としている外科医像に近づけたように思います。それは、決意するだけでなく、思い切って環境を変え、実際に行動に起こすことで、「小さな成功体験」を積み上げる習慣がついたからです。
努力が成果を結ぶまでの過程は、等比数列のような成長曲線のカーブ(以下)を描くことが多いと思います。
体力やコミュニケーション能力といった成果が数字で見えにくいものほど、成長を感じにくく、期待と現実のギャップに直面して挫折しそうになります。そんな時はこのグラフを思い出し、未来の自分の姿を思い浮かべ、小さな成功体験を地道に積み上げます。
「積み上げる」を「可視化」と言い換えることもできそうです。
例えば、大学入学時は人に喋りかけた履歴をノートなどに記録していました。*1コミュニケーション能力は数字で表しにくい。だからこそ、上達のプロセスを可視化し、上達の喜びを噛みしめる必要があると思います。
思えば、この「可視化」の習慣は、研修医のプロモーション活動や「うんコレ」など、新しいプロジェクトを進めていくうえで、なくてはならない要素でした。
実際、研修医時代にも「今日うまくできなかったことリスト」を作り、できるようになったと感じた項目をリストから消すということをしていました。
組織の中の課題を見つける 〜一次情報に触れ、期待値とのギャップをなくす〜
自分の外科医としての目標を果たすにはまず医療現場の問題を解決する必要がありました。
なので私のやってきたことを紹介する前に、医療業界が長年抱えてきた問題について、当時の社会状況も交えながらご説明します。少し長くなりますがお付き合いください。
「白い巨塔」という作品は、かつて大学病院に存在した「医局制度」、すなわち教授を頂点とするヒエラルキーのあり方を鮮明に描いています。
同作には、教授に楯突いた若手医師が、高知県の病院に左遷されるシーンが登場します。医局制度の下で、教授が人事権を握っているため、医師は原則自分で研修先・配属先を決められなかったのです。*2
ただ、皮肉なことに当時の地域医療はこのような仕組みによってなんとか回っていた側面がありました。
その流れは、2004年開始の「初期臨床研修制度(新医師臨床研修制度)」で変わります。新人医師が自分の意思で研修先を選べるようになったため、都会に医師が流出しはじめました。「地域医療の崩壊」というトピックがメディアを賑わすようになりました。*3
地域医療崩壊の足音は、僕が大学時代を過ごしていた高知にも迫っていました。ちょうど医学部5年生の時、体力も、コミュニケーション能力も、周囲からの評価も高かった先輩の研修医が、過労死する事件が起こったのです。
事件をうけて僕は、「このまま高知の医療崩壊を見過ごしてしてしまっていいのだろうか……」と考えるようになりました。
そうした課題感を同期に話しても、寄せられる声のほとんどは「制度は国が作ったものだから変えられない」「高知はオワコン」という後ろ向きなもの。心に抱えたモヤモヤを解消できないまま、研修医としての日々が始まりました。
しかし、ある時、高知にある病院の先生の下でハイレベルな研修を受け、それまで持っていた「都会の有名病院の医師は、高知の病院の医師よりも優秀だ」というイメージが見事に覆されました。
高知でもこんなに立派な研修を受けられる。都会での研修に過度な期待を持つ医学生は多いけれど、彼らに正しい情報を伝えられれば、高知の魅力に気づいてもらえるはずだーー。そう前向きに考えられるようになりました。現場の経験を通じて課題に関する一次情報に触れた結果、期待値とのギャップがなくなったのです。
組織の中の課題を解決する 〜目的は大きく掲げ、課題は小さく分解する〜
とはいえ、高知の地域医療は図のような悪循環に陥っていました。
ここから20年かけて教授になって、仕組みを作り直すまでに、多くの研修医が過労死してしまう。その可能性を考えると、高知の医療崩壊を食い止めるために必要なのは今すぐ実施できる打ち手でした。
仕事の量は減らないし、教育の質もすぐには変えられない。だからこそ、「とにかく医師の数を増やそう。集客こそ一番レバレッジ(テコ)の効く施策だ」と考えたのです。
高知県内の医師数を増やすための方法は、
- (人材の)流出を減らす
- (人材の)流入を増やす
の2つあります。
まず、流出を減らすための最小限のアクションとして「自分達の世代から、高知県内の病院の悪口は言わず、いいところを言おう」と周囲に呼びかけました。というのも当時、「◯◯病院はブラックだから、うちで研修したほうがいい」と病院同士でディスりあう風潮があったからです。医学生たちはその様子を敏感に察知し、県外に流出していました。
「いいところを言い合おう」という呼びかけを自分ごと化してもらうにはどうすればいいか。そこで企画したのが、県内にある全病院の同期研修医を集めた飲み会です。表向きは「交流会」と案内しましたが、僕はプロジェクターを会場に持ち込み、飲み会の途中で「悪口を言わないキャンペーン」のプレゼンを始めました。
病院同士がディスりあう風潮は同期のみんなも問題視していたようで、この機会を設けたことで、「オール高知の研修医で同期仲良くやっていこう」と一致団結できました。
次に、流入を増やすべく、仲良くなった同期や後輩たちと研修医ホームページやオリジナルポスター、オリジナルのノベルティグッズを作りました。
とはいえ、正式なルートで「作りたいです」と教授に打診しても、「予算は? 誰が作るの? 前例は?」と詰められる予感しかしなかったので、勝手に作って勝手に広報を始めました。「いくら言葉で伝えても、結果を出さなければ伝わらないだろう」という考えもあったからです。
ホームページ制作の知識はまったくありませんでしたが、「学ぶ」のではなく、「手を動かす」ことに専念し、スピーディーに立ち上げました。
ノベルティグッズの制作費は少し高くつきましたが、高知県に寄付する気持ちで、5万円ほど投資しました。
作ったノベルティグッズは、学生と研修病院が一同に介する就職説明のマッチングイベントに、これまた勝手に持ち込み、勝手に配布しました。
ポスターは、当時まったく利用されていなかった、県内の病院を見学した医学生に対して社団法人が3万円の旅費補助を出す、という制度にフォーカス。「手に取りたくなること」を意識しながら、役所が作ったフライヤーを勝手に作り変え、それを印刷してイベントの会場に持ち込んだのです。これがたまたまヒットし、活動前の数十倍も来場者数を増やすことができました。
ちなみに、こうした活動は各病院の上層部の間で話題になったようで、ある日研修先の院長から、「明日の会議で3分もらえそうだから、これまでやってきたことを(上層部の前で)説明してみないか」と声を掛けられました。
実際、会議に出てみると、上層部の中には「勝手にやった」「内容が突拍子もない」と怒り心頭の方もいました。とはいえ、人材不足は新聞にも取り上げられる業界全体の問題であり、上層部の中でも「打ち手が見つからない課題」と認識されていました。
現場からの言葉には説得力があったのか、高知の現状を当事者目線で話すうち、徐々に「やっていることはよく分からないが、若者の気持ちは若者が一番よく分かっているはずだから、やらせてみよう」という雰囲気になっていきました。
その後、活動の成果も実り、高知県の研修医の数は徐々に回復していきます。
ここで紹介したすべての活動は、教授にならなくても実行できます。一見すると大きな課題でも、「やるべきこと」に細かく分解すると、「課題の解像度」が上がり、とるべきアクションも明確になります。
課題の解像度を上げるために実践していたのが「Whyの投げかけ」です。
……とそれぞれの課題にWhyを投げかけて課題の粒度をブレイクダウンし、大きな課題を「自分ごと化」していくのです。この過程を踏んではじめて、「飲み会に全力投球すべき」と思えるようになります。
また、ホームページの事例のように、いきなり100点を目指すのではなく、30点くらいでいいから素早くアウトプットするのも成果を残すうえでは重要です。多くの反応をもらいながらPDCAを高速で回すと、結果的にクオリティの高いものに仕上がるのです。
業界外の関係者と共に課題を解決する 〜「雑用をこなすリーダー」に徹する〜
研修を終え、晴れて外科医になった僕は業界の枠組を超えて「うんコレ」というゲームを作りました。医者なのにゲーム? と思われる方も多いかと思いますので、制作の経緯をご紹介しましょう。
そもそも「ゲームを作ろう」を思いついたきっかけは、普段の仕事でした。
僕が治療する機会の多かった大腸がんは「サイレントキラー」とも呼ばれ、症状が出にくいことで知られています。病院で治療を受ける際にはもう手遅れ、というケースも少なくありません。
そんな大腸がんの代表的な症状は、血便が出る、下痢と便秘を繰り返す、便が細くなる、残便感がある、と「うんこ」にまつわるものばかり。しかし、普段から「うんこ」の状態を意識できている人はどれほどいるでしょうか? 排便後、便器の中を見ることなく流してしまう方も少なくありません。僕はここで、治療前の患者さんにアプローチできない、という医療業界の課題を感じました。
だからこそ、大腸がんの予兆を発見するためにも、日常的に便を見る大事さを広く伝えたいと考えていました。
その矢先、「うんこはネットで話題になりやすいワード」だと知りました。同時に、僕自身がめちゃくちゃスマホゲームにハマっていたこともあって、「ネットでプロモーションできないか」「課金のモチベーションを便を見ることに応用できないか」という思いつきが生まれ、これが「うんコレ」の原点になりました。
とはいえ、思いつくことと、それを形にすることの間には大きなギャップがあります。僕はプログラミングも、絵を書くことも、音楽を作ることもできませんでした。しかも、課金を排便の報告に代えるのがアイデアの肝なので、「売上が立たない前提」です。
そこで、今回ばかりは他分野の人に力を借りなければ……と観念し、泥舟アイデアを一緒に形にしてくれるエンジニアやクリエイターを探しました。異業種交流会にも飛び込んでみました。もちろん、制作実績のない僕のアイデアに耳を傾けてくれる人は当初誰もいませんでした。
……が、いくつかの交流会に参加するなかでエンジニアの木野瀬友人君に出会い、「医療に興味があるから、ボランティア的に何か作ってみよう」と前向きな返事をもらえました。その後、木野瀬君の紹介でアニメプロデューサーの前田地生さんとも出会い、トントン拍子にメンバーが集まりました。
僕はといえば、自ら提供できるのは医療の知識くらいだったので、メンバーが集まるたびに医療相談に乗るなどして、少しでもチームに貢献しようとしました。誰かに与えられるだけではなく、自分から与えることを常に意識したのです。
また、もう一つ大事にしたのは、意思決定に悩んだら「面白いと思う方向へ舵を切る」こと。会社であれば、儲かるかどうかが大事な判断基準になるでしょうが、「うんコレ」はあくまでサークル活動。そのメリットを最大限に生かし、たとえまったく儲からなくても、メンバー全員が面白いと思えることをやろうと決めたのです。
もしも僕が100万ダウンロードされるゲームを作ろうとしていたらまったく違う手法になったと思うのです。
だからこそ、プロジェクトを進める時には大きなゴールや方向性を設定してメンバーに丁寧に共有し、互いの温度感をすり合わせる必要があります。「うんコレ」にはその後、多くのメンバーが参加しますが、温度感がすり合わなかったメンバーが抜けていくこともありました。でも、たとえ貴重なメンバーが抜けても、大きなゴールや方向性は変えない。この点を意識することで、「沈まない船」ができあがりました。
ちなみに、大きな目的を掲げ、細かい利害を調整するという点は、研修医時代のイベント集客にも近いと思います。あの時、病院の上層部を説得できたのは、立場は違えど「とにかく医師不足を解決したい」という大きな課題を共有していたからです。
話を戻すと、「うんコレ」は新たなメンバーが参加するたびに新たな機能が実装されました。僕はゲーム制作の面では何もできないと理解したうえで、「雑用をこなすリーダー」に徹しました。事業を成り立たせる要素がヒト・モノ・カネならば、「うんコレ」は間違いなくヒトの力に依存したプロジェクトでした。
医師は病院のリーダーとなることが少なくありませんが、経験上、看護師さんや薬剤師さんの意見に耳を傾け、自分の意見を押し通さないほうが結果的に全体のパフォーマンスが上がる傾向にありました。そんな医療の世界で培った多職種連携の知見が、ゲーム開発にも役立ったように思います。
課題を解決しながらキャリアを作る 〜「点」を「線」でつなげる〜
人生を通じた僕の目標は、「病気に罹っても病気中心の人生にならず、豊かな暮らしを歩める方が一人でも増えるようサポートすること」。その目標を達するうえで、医師は最も適した職業だと思っていました。
ただ、さまざまな業種の方と病院の外で触れ合えば触れ合うほど、病院だけで解決できないことの多さ、「事件は病院の外で起きている」ことに気づかされました。
例えば、心臓や脳の病気は、高血圧や糖尿病のように長年の蓄積から発症し、最後に急激な変化を起こすものです。高血圧や糖尿病の原因を探ると、生活習慣や社会問題に行きつきます。僕ら医療者が向き合っている病気の多くは、症状が出る前に、まずは自分の身体に興味を持ってもらうことが重要なものばかりなのです。
思えば、自分が患者さんと集中的にコミュニケーションするのは入院から退院までのわずか1カ月弱だけ。普段患者さんがどのような生活をして、どのような悩みを抱えているかまでは、まったく想像できていなかったのです。
だからこそ、もっと暮らしに近いところで医療の知識やサービスを提供したいと考え、夜間診療所や在宅医療を提供する診療所を作りました。
自分のキャリアを振り返ると、課題にぶつかるたびに新しいアクションを起こし、そのアクションの結果から新しい課題を見つけることを繰り返しています。履歴書の上では散らかったキャリアに見えるかも知れませんが、実はすべてが線でつながっているのです。
大胆なキャリアチェンジで点から線を作っていくか、作ってきた線を丁寧につなげていくか。自分の向き不向きを考え、「自分らしく生きる」ことを意識できていれば、どんな方向へ向かっても迷わないはずです。
そして、いかなるキャリアを歩むにせよ、課題と向き合い、アクションを起こすうえで仲間の協力は欠かせません。僕の仲間たちは皆、課題が解決した後も関係性が残った「善き友」です。正直、点を渡り歩く最中はどうなることかと不安もいっぱいでした。しかし、こうして素敵な仲間と出会えただけでも、渡り歩いた価値があったと今では思います。
アフリカで、こんな格言が語り継がれているそうです。
早く行きたければ、一人で行け。遠くへ行きたければ、みんなで行け
この言葉を噛み締めながら、人生を通じて少しでも遠くまで行けるように、これからも地道にキャリアを積み上げていきたいと思います。