「自由に生きる」を体現する若きピアニスト・反田恭平さんのこれまでとこれから【私のはじめの一歩】

自分らしい生き方をしながら活躍する人の「はじめの一歩」について、本音で答えてもらう企画「私のはじめの一歩」。今回は、個人事務所や自身の音楽レーベルを立ち上げ、コンサートの企画やプロデュースも行う、若きピアニスト反田恭平さん。海外でも活躍され、さまざまな活動をされる反田さんの原動力は何か? 反田さんの今につながるはじめの一歩と、これからの目標について伺いました。

プロフィール

1994年生まれ。ピアニスト。2016年のサントリーホール大ホールでのデビュー・リサイタルは完売、2,000人の聴衆を魅了した。デビュー後は毎年オーケストラ、リサイタルのツアーを全国で行なっている。2018年からはソリストとしての活動のほか、室内楽や自身が創設したジャパンナショナルオーケストラのプロデュースも行っている。2020年のコロナ禍ではイチ早く有料のストリーミング配信を行うなど、活動の場を広げている。また海外での活動も増え、2020年1月にパリ、10月にはウィーン楽友協会でデビューを果たし現地の観客から称賛を得ている。「情熱大陸」や「徹子の部屋」などメディアへの出演も多数。

現在のお仕事を始めたきっかけを教えてください。

僕にとってピアノは、小さいころから弾けば親や友だち、先生に喜んでもらえた趣味であり遊びみたいなものなので、あまり仕事という概念はないんです。ピアノは4歳から習っていましたが、実は11歳まではサッカー選手を目指していました。しかし、手首を骨折してしまったことをきっかけに、「ピアノなら怪我しないかな」と思い12歳で本格的にピアニストとして音楽をやっていこうと決めました。

その決意と同時にそれまで通っていた音楽教室をグレードアップして、プロになるための教室に変えました。それからは鬼のようなレッスンの日々で……。「練習嫌だな、面倒だな」と思うこともありましたが、12歳で基礎をしっかり叩き込めたことは良かったと思っています。

12歳の夏休みに、オーケストラのワークショップに参加したのですが、最終日に指揮者の体験をする機会があったんです。子どもの僕が棒を振った瞬間、何十人もの人の楽器の音が一度に鳴って……。その時初めて「オーケストラってカッコいい!」と感動し、オーケストラが自分の中で音楽の基準となりました。そこから本格的に音楽をやっていきたい、ピアニストとしてやっていきたいという想いが芽生えたように思います。

初めて仕事として人前でピアノを弾いてお金をもらったのは中学校2年生の時でした。15分くらい演奏して、確か5,000円もらったと思います。コンクールに出て賞金をもらうのとは違う、大きな達成感がありました。

中学2年生で高校の進路を決める時に「音楽学校に入りたい」と両親に伝えました。それを聞いて、父は猛反対。しかし、「なにかコンクールで1位を取ってきたら音楽学校に進んでもいい」と言われました。実はそれまでコンクールで1位はもちろん、2位も取ったことがなかったのです。

さすがに人生がかかっているとなると、今まで以上に練習量を増やしました。練習も「賞を意識した」スタイルに変え、その時に受けられるコンクールを全部受けてすべて1位を取りました。結果的に、父は認めてくれ「高校は頑張れよ」と言ってくれたのですが……。高校「は」ってことは、大学以降の音楽活動は認めてくれないのかな……? と思い、高校の間に音楽業界で名が知られるようにならなければと決意を新たにしました。

高校と大学が一貫校だったこともあり、高校在学中から学内で有名になろう、大学の教授に認めてもらい応援してもらおうと、とにかく1番を目指しました。高校から学内で有名になることで、大学以降の音楽活動を父に認めてもらいたいという思いもありましたね。結果、高校3年生の時に日本で一番権威があると言われるコンクールで1位を取り、日本一の称号を手にしました。そこから多くの人に知ってもらえるようになり、今の活動につながっています。

反田さんは、海外でも大変ご活躍されていらっしゃいますが、目標を叶えるため新しい場所や環境で活動されるにあたり心掛けていたことや、読者(二十代)が真似できることやポイントがあれば教えてください。

現在はポーランドを拠点に活動していますし、公演やプライベートなどで海外はよく訪れます。そんな僕でも、高校卒業後にはじめて日本を離れ、ロシアに3年間半留学していた時は本当に辛かったです。

ロシアは冬の寒さの厳しさはもちろんですが、冬には1週間太陽が出ないこともあるんです。更に当時、英語がまったく通じない地域だったので、メンタルに限界を感じ挫折して帰国してしまう留学生も多かったようです。

ロシア語を勉強する時間もほとんどなく、最初の3カ月くらいはしんどかったです。毎日「早く寮に帰ってベッドにもぐりこみたい」と考えていました。

だけど、「自分はもっと上手くなるんだ」「もっと大きくなるんだ」という目標があったので、日本に帰ろうとは思いませんでした。活力の源となったのは、自分が音楽家として大きくなるためのビジョンでした。ただ、音楽家になるというだけでは漠然としているので、「3年後にあの音量が出せるようになりたい」「音色の数をもっと増やしたい」など目標を分解し計画を立てました。そうすることで5年後に目指す自分になるために、このロシアでの日々は必要だと考え、乗り切ることができたのだと思います。だから読者の皆さんも、自分が目指す未来を具体的に描くことで新しい場所でも頑張れるのではないでしょうか。

反田さんの今の生き方や考え方に影響した、一番のターニングポイントはどんなこと? その時に踏み出したはじめの一歩は?

いくつかターニングポイントはありますが、印象に残っているのは24歳で会社を設立したことです。2016年に22歳でデビューをして事務所に所属したものの、わずか2年で会社を作ったのは「もっと自由に生きたい」と思ったから。僕が目指していた「音楽家」とは、ピアノを演奏するだけにとどまらず、作曲、指揮、プロデュースなど音楽すべてに関わる人を指します。あらゆる形で音楽に携わっていくことが「自由に生きる」ということです。

そしてその延長線上に、30年後には自分の音楽院を建てたいという夢があったためです。

もし30年後に夢が叶って音楽院を建てることができたとして、お金も人もチームも揃っているにもかかわらず、学長である自分が「音楽しかやってこなくて経営の仕方が分からない」となると困ると思ったんです。だから今から会社経営の勉強をしつつ、社会の仕組みやつながりを知っておきたいと思いました。

現在会社は2期目を終えたところですが学ぶことは多く、1人のアーティストではできなかったことができています。更にやりたいことが広がりましたね。

最近はじめてチャレンジできたこと、やってよかったことはどんなこと?

コロナをきっかけにマイクを買ってきてネットでラジオを始めました。今まで電気製品に疎かったのですが、やってみると楽しくて! その次はVlogを撮ろうとカメラを買って自分で編集にもチャレンジしました。

自分でやるには時間がかかるのですが、どうしてもこだわりが強すぎて人には頼めなくて……。でも、集中して取り組まなくてはならない編集作業はストレス発散にもなります。好きなVlogger(ブイロガー)さんが話されていた、編集や撮影の仕方を自分なりにマネして作ってみたり、オープニング映像のほんの数秒のために撮影に行ったりもしました。

自分で手を動かす作業を一度やってみたら、どんどんハマっていき、派生してnoteで音源をアップロードして販売してみたり、楽曲解説をしてみたり……。

そうそう、500円玉貯金も最近始めてみたんですよ。100万円貯まる貯金箱を使っているのですが、どのくらい貯まったかなって気になって途中で開けちゃったんですけど(笑)。30万円ほど貯まっていましたね。

仕事の告知・宣伝があればどうぞ!

実は2021年の春から2つめの会社を興します。

今までは同世代の実力派アーティストに声をかけ立ち上げた「MLMナショナル管弦楽団」(『音楽を愛する青年たち』というロシア語の頭文字を取って命名)として活動していましたが、2021年から「ジャパン・ナショナル・オーケストラ」と改名しこれから大きな船出となります。なかなか大変な時期ですが、面白いコンサートを企画していくので、遊びに行く気持ちでぜひ聴きに来てくださいね!!

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