“転職3年神話”を言い訳にしない。会社を辞めたら、少しずつ「やりたいこと」が見えてきた話|嘉島唯 

嘉島唯さんBuzzFeed時代の写真
BuzzFeed時代の一枚。取材現場で


「今すぐ会社を辞めたい」人も、「まだ会社にとどまろうかなと思っている」人も、その理由を深く考えたことはあるでしょうか。

先に転職した同僚のSNS投稿、「一つの会社で3年働いた方がいい」という言説、ツラいことを続ければ報われるという神話。そんな「有り物の理由」が頭に思い浮かんだ人は少なくないかもしれません。

異業種転職でキャリアを切り拓いてきた嘉島唯さんも、かつては「有り物の理由」で、転職していた時期があったそう。嘉島さんはいつ、どのようにして自分のキャリアに「覚悟」が持てたのでしょうか。

***

「なぜ、ウチなんですか?」

会議室で聞かれることもあれば、薄い仕切りに囲まれたブースで答えなくてはいけないときもあった。

「内定」目掛けて、質問の答えを練る。就職活動というゲームのプレイヤーだった頃、私はちゃんとした「答え」を繰り出せていたのだろうか。

新卒入社した通信会社では営業職についた。「コミュニケーション能力には自信があって」「粘り強さが自分の長所」という当時の私が出した「答え」が考慮されたのかもしれない。

でも、営業職として働いたのはわずか1年ほど。それからWebメディア業界に異業種転職して、今では編集者とかライターといった肩書きで働いている。この仕事が天職と言えるかは、正直言ってまだ自信がない。けれども、数回の転職を経てもなお、この業界で働いていることを踏まえると、就活で出した「答え」は仮初めのものだったかもしれない、とも思う。

異業種への転職は、強い志望動機や煌びやかな経験がないと難しい気がしていた。加えて「転職はとりあえず3年働いてから」という言説も聞いていた。

でも、今まで5社で働いてきたけれど、3年以上働いた会社は一つしかない。さらに言えば、転職当時から、嘘偽りのない明確な志望動機を持てていたのかすら怪しい。というのも、私の場合は転職を繰り返していくうちに、ようやく「やりたい仕事」の輪郭が見えてきたからだ。

転職を繰り返すなかで、試行錯誤も重ねた。そんな私の経験が、なんとなく「転職しなきゃ」「3年は同じ会社にいなきゃ」と思っている人に「やりたい仕事」や今後のキャリアを考えてもらうきっかけになるのなら、とてもうれしい。

新卒時代は「やりたいこと」なんて分からなかった

就活生のころ「社会に大きなインパクトを与えたい」「人の心を動かしたい」という理由から、メディア業界を目指した。テレビ局に出版社、新聞社、そして広告代理店。なんて視野が狭いのだろうと思うけれど、当時は一生懸命エントリーシートを書いて、SPI対策をして、面接に挑んでいた。

本当にメディア業界に行きたいのであれば、数万枚ものエントリーシートが集中する大企業だけでなく、制作会社や、それこそWebメディアとか、いろいろな選択肢があったはず。なのに、それすらきちんと把握しないまま就活をしていた。

結局、最終面接の厚い壁を突破することは一度もなかった。

なんとか内定をもらえたのは、数万人の従業員を抱える通信会社。本当にかっこ悪いけれど、私はメディア業界に行きたいというよりも「大手企業」に入りたかったのだった。

刺激も多くて楽しいだろう。給料もちょっと期待できるかもしれない。

なんなら、「大手企業の内定をゲットする」というゲームに勝ちたかっただけなのかもしれない。

でも、ゲームに勝ったはずなのに、待っていたのは緊張の糸が常にピンと張る毎日だった。ザ・体育会系よろしく、部署の大半が男性(そして先の尖った革靴を履いていた)。「言い訳はいいから成果を出せ」と喝が飛ぶ会議に出席する時は、口の中が酸っぱくなった。

そんな環境で息抜きがてらSNSを開くと、メディア業界に新卒入社した同期たちがプライベートを楽しみつつ、活躍していた。「この企画をやりました」とか「手伝いでイベント運営しました」とか「ようやく情報解禁で〜」というキラキラした成果報告を見ると、心が黒くなる。

同じ教室で授業を受けていたのに、なぜこんなにも遠く離れてしまったんだろう。その席に座るのが、なんで私じゃなかったんだろう。私とあの子の差ってなんだったんだろう。

でも、まだ答えられなかった。いろんな仕事で成り立つ「メディア業界」で自分が何をやりたいのか。なぜ、この世界に行きたいのか。

むしろ、そうやって同期の活躍に嫉妬しながらも、「ここで3年耐えればどこの会社でも行けるかも」と、甘えた考えを抱き続けていた。

「やりたいこと」が分からないから、スカウトも来なかった

とは言っても、キラキラした同期の姿を意識しないわけにはいかず、こっそりと、就活の時に使っていたサービスの中途採用版に登録した。入社2年目で何もできないくせに、企業からオファーが来る「スカウトシステム」に少し期待していた。当たり前のように、スカウトなんて1通も来なかった。

そもそも、1社目でやりたい仕事ができていないことに負い目を感じていた。会社でうまく立ち回れなかったのも、「無能だと思われたくない」と、周りに助けを求められなかったのが大きいように思う。

そんな時、友人から編集者の”お姉さん”を紹介された。Twitterで「つらい」とか「死にたい」とばかりつぶやいている自分を見かねて、友人がつないでくれたのだった。

“お姉さん”は容赦なかった。

「あなたさ、覚悟がなさすぎるんだよ。自分のやりたいことがあるならやればいいじゃん。どうして踏みださないの? いいじゃんバイトでも。苦しんで働いているなら、まずは夢を一つ叶えてみれば?」

聞こうとしていた、「どうすればメディア業界へ転職できるんですか?」という質問は吹き飛んだ。ガツンとした言葉に落ち込むどころか、放心状態になっていた。私は「一つの会社で3年は働かないと」という言説を言い訳にしつつ、心のどこかで「いつかメディア業界に拾ってもらえるのではないか」と都合のいいことを考えていたのだ。

新卒2年目。経験値はないけれど、伸びしろはある。そんな認識の転換をどうして今までできなかったのだろう。確固たる自分がなければ、とにかく飛び込んでみればいい。

別の選択肢も考えた。大企業にこだわるなら、今の会社で部署異動をするのが現実的だし、3年勤続の経験がほしいなら1年我慢した後に改めて転職活動をすればいい。

いろいろな選択肢を考えたが、結局はやりたいことを仕事にしたいのであれば、自分で動くしかなかった

遠回りして「やりたいこと」が見えてきた

そんな時、「自分に身近なWebメディアで働きたい」という思いがふつふつと湧いてきた。新聞も雑誌も読むことはあるけれど、Webメディアはスマートフォンごしに無料で読め、シェアまでできる。激務で疲弊する中、細切れの時間にWebメディアの記事を読んでは仕事を忘れられた。少し、「やりたいこと」が明確になった。

Webメディアを丁寧に見ていると、サイトの端のほうに人材募集をしていることが分かる。採用サイトに掲載している企業だけが、働き口ではないのだ。早速、直接その門を叩いて履歴書を送ると、2社の面接を受けることになった。

未経験だけれど、「使える人間」に思われないと……就活の時とは違い、営業の経験も織り交ぜた自己PRをした記憶がある。

結局、2社とも落ちた。なんとなく覚えているのが、面接で「あなたの話を聞いていると、すごく優秀に見える。だったら今の会社で働き続けてもいいし、別にウチじゃなくてもいいような気がする」とフィードバックをもらったことだ。たとえ「使える人間」に思われたとしても、「この仕事がやりたい人間」であることが伝わらなければ意味がない。

一番入りたかったWebメディアに「人材募集」の文字はなかった。規模も大きく、人材は足りているのだろう。そう思った瞬間、「覚悟が足りない」というお姉さんの言葉が頭をよぎった。

気づくと運営会社に履歴書だけ送付し、Twitterで「創刊編集長」にDMを送っていた。「御社に入りたいんですけど、話をお聞かせいただけませんか」。怪しがられたり、不審がられたりしても、もうどうでもよかった。

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というのも、彼のブログに自分がやりたいことが明確に書かれていたのだ。それは自分の就活生時代を振り返り、ようやく1社の合格通知を得るまでの話。当時22歳だった彼は、就活ノートに「文化を創りたい」と書いていたそうだ。そして、社会人になってからの15年は、文化を創るために努力し続けていたという。文章の誠実さはもちろん、そんな青臭いことを言える社会人がいることに衝撃を受けた。

思えば、通信会社で営業として働いていた時に、そのメディアの記事を一番読んでいた。当時の仕事は、携帯ショップを経営する会社に自社回線を契約してもらうこと。簡単に言うと、より多くのiPhoneを売ってもらうことだった。

だから、そのメディアの「iPhoneには、こういう戦略があって、こんな可能性がある」という考察記事が特に好きだった。スペックを羅列しただけの説明書のような記事にはない、自分の仕事をほんの少し肯定できる要素があったからだ。

面接では、「記事に胸を打たれた」という誰にでもある経験を、一生懸命話したような気がする。最終面接の前に会社は辞めた。落ちたら無職になる。でも、なんとなく腹をくくったほうが受かる気がした。ここでも「覚悟」の文字が頭をよぎった。

今でも覚えている。2月19日、私は「ギズモードの編集アシスタント」に内定した。正社員ではなくアルバイト。すごく遠回りだったし、職を得るまでの過程も全然キラキラしていない。でも、内定通知のメールを見て深呼吸した時、うれしさと安堵が肺を満たして、就活の時に流さなかった涙が出た。

転職を重ねて「やりたくない」仕事が目の前に現れた

アルバイトとしてギズモードで働くことになってから、時間の流れが一気に加速した。仕事はSNSアカウントの管理に始まり、次第に編集者として、委託先のライターと組んで取材をしたり、企画書を書いたり、原稿への朱入れもするようになった。Webメディアは記事を公開すれば、リアルタイムで反響が来る。このスピード感は紛れもなく「刺激」だった。

嘉島唯さんギズモード時代の写真
NTTドコモの加藤薫社長(当時)と握手する図。ギズモード時代の一枚

職場環境も良かったのだと思う。下っ端の意見も丁寧に汲み取ってもらえ、褒めてもらえることすらある。これまで味わったことのない雰囲気だった。

嘉島唯さんギズモード時代の写真
ニコニコ超会議でホリエモン弁当を食べる図。ギズモード時代の一枚

その後、4社目のBuzzFeedに転職した際、小さいながらジョブチェンジをすることになる。それまで編集者として働いてきたのに、BuzzFeedではライター職として採用されたからだ。BuzzFeedは基本的に社内で記事をつくっている。バックオフィスの社員以外、全員が記事を書く。新聞社に近い人事体系だった。

執筆の経験は薄かったので、正直、ライター職はかなり嫌だった。加えて、全員がライター職として記事を書くとなると、PVやシェア数といった「数字」の競争で精神を病みそうに感じた。

嘉島唯さんBuzzFeed時代の写真
出張時はホテルで缶詰になって原稿を執筆していたことも。BuzzFeed時代の一枚

そんな考えが変わったのは、学生の頃からお世話になっている、日経BPの柳瀬博一さん(現・東工大教授)にアドバイスをもらったからだ。「(会社に)ライター職しかないのが嫌だ」という私の愚痴に、柳瀬さんはこう返した。

「これからメディア業界で長く働くのであれば、一度書くことに専念する時期があってもいい。編集者に戻った時、記事を発注するライターと、今よりもっと連携できるようになるから」

敏腕編集者として第一線で活躍する柳瀬さんの意見はごもっともで、すぐに考えを改めた。

とっさに、これまで一緒に仕事をしたライターの顔が浮かんだ。彼ら彼女らは、どんな気持ちで自分と一緒に働いていたのだろうか。誠意を持って一人ひとりと向き合ってきたつもりではあるけれど、失礼はなかったと言い切れるだろうか。もし、この先また一緒に仕事をすることがあるならば、もっと気持ちよく書いてもらえるような編集者になっていたい。

そのためには、ひとまずライターとして頑張ってみよう。合わなかったら辞めてもいい。

これまで何度か転職を繰り返してきたので、仕事の相性に関して気楽に考えられるようになっていたのも大きかった。

「やりたくないこと」が「やりたいこと」になっていた

ライターの仕事を始めてからは、苦労の連続だった。ニュースからライトな記事まで、幅広いジャンルを書き分けなくてはならない。昨日、災害の記事を書いたかと思えば今日はコンビニの新商品を紹介する。

ひとえに執筆と言ってもいろいろなスタイルがある。ニュースを深堀りしたり、速さ勝負で簡潔に書いたり、自分で何かを試してレポートしたり、専門家に話を聞いたり。

そして、自分が書きたかったことや、労力をかけて作った記事が必ず読まれるわけではなく、時には名指しで読者から批判されることもあった。

とにかく毎日打席に立って、いろいろな球を受け、無心にバットを振り続けた。
すると、「手札」が増えていった。

自分がなぜ書くのが嫌いなのかも分かってきた。100点のクオリティにこだわりすぎて、「カロリー過多」な執筆をしていたのだ。その完璧主義が、書くことへの苦手意識につながっていた。

壮大なことや高尚なことを書かなくてもいい。日常の些細な疑問やちょっとした発想の転換がトピックになることが、打席に立ち続ける中で見えてきた。

毎日記事を書いては、反響がすぐに来る。スピード感のあるサイクルを回していると、だんだんと「こういう記事を書いてみたい」と思えるようになっていた。

嘉島唯さんBuzzFeed時代の写真
BuzzFeed Japanの初期メンバーに本社から共有された、記事制作のヒントを示したメモ。在籍時はずっとモニターに貼っていた

やりたいことがないなら、苦手なものに這いつくばってみる。そうすると、知らない間に「やりたいこと」が自分の中に芽生えていた。今では本業のほかに、休日にはフリーのライターとして仕事をするようになった。

「なんとなく辞めたい」はもうやめよう

キャリアについて考える時、気恥ずかしさや「他人に迷惑をかけたくない」という思いから、「一人で考えなくては」とばかり思っていた。振り返ると、キャリアも原稿も、自分の頭の中だけで考えると、理想ばかりが高まって、動けなくなることばかりだった

自分のことは自分が一番よく分かっていない。最初からやりたいことが決まっている人は、思ったほど多くないのかもしれない。

人にアドバイスをもらってもいいし、そのアドバイスをきっかけに、思いもよらない選択をしたっていい。一番大切なのは、自分の頭で自分のキャリアを決めることではないだろうか。給料か、「やりたいこと」か、規模感か、裁量か。何を優先してキャリアを決めるかは人それぞれだ。
振り返ると、私にとって転職は、人生をガラリと変える転機ではなく、やりたいことを明確にするための手段だった。なんとなくキャリアを考えるだけでは見られない景色を見せてくれたのだから。


≪関連リンク≫
tenshoku.mynavi.jp

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嘉島唯

LINE NEWSに所属するライター/レポーター。千葉県生まれ。早稲田大学を卒業後、大手通信会社へ入社し、営業職に就く。その後、株式会社メディアジーンに入社し、ギズモード・ジャパンの編集者としてキャリアチェンジ。ハフポスト、BuzzFeed JapanなどのWebメディアを経て現職。