「才能のない」ラジオディレクター・石井玄さんが年間300本の放送を任されるようになった理由

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<プロフィール>
石井玄。1986年埼玉県春日部生まれ。2011年、ニッポン放送系列のラジオ制作会社サウンドマン入社(現ミックスゾーン)。ニッポン放送「オードリーのオールナイトニッポン」、「星野源のオールナイトニッポン」、「三四郎のオールナイトニッポン」、「佐久間宣行のオールナイトニッポン0」やTBSラジオ「アルコ&ピースD.C. GARAGE」などのラジオ番組にディレクターとして携わる。2018年オールナイトニッポンのチーフディレクターに就任。2020年にニッポン放送入社。エンターテインメント開発部のプロデューサーとして、「星野源のオールナイトニッポン リスナー大感謝パーティ―」「佐久間宣行のオールナイトニッポン0 リスナー大感謝祭~freedom fanfare~」などのイベントに携わる傍ら、Amazonオーディブルのポッドキャスト「佐藤と若林の3600」「オークラ 質問のコメディ」などのプロデュースを担当。2021年には初の著書であるエッセイ「アフタートーク」を刊行するなど活躍の場を広げている。
Twitter:@HikaruIshii


働くにあたり、何らかの憧れや理想像を持つ人は多いと思います。ただ、仕事を続けるなかで、「この仕事は向いてないのではないか」「才能がないかもしれない」と現実を突きつけられる場面も少なくないのではないでしょうか。

ラジオ局「ニッポン放送」のプロデューサーとして働く石井玄さんは、これまで「オードリーのオールナイトニッポン」や「星野源のオールナイトニッポン」など、大人気番組のディレクターを担当。2018年からはオールナイトニッポン全体のチーフディレクターを務めるなど、ラジオ業界では知らない人のいない存在です。

しかし、実は入社早々に「ディレクターとしての才能のなさ」を痛感し、現在のキャリアを築くにあたりさまざまな試行錯誤があったといいます。

石井さんは自らの「才能のなさ」を認識したうえで、どのように仕事に取り組んできたのでしょうか。仕事における「自分らしさ」との向き合い方や、好きなものを仕事にするうえでの心構えまで幅広く伺いました。

ラジオの「ダメな大人」たちに救われた大学時代

――石井さんは大学卒業後、専門学校に入り直してラジオディレクターを志したそうですね。もともとラジオはよく聴いていたのでしょうか?

石井玄さん(以下、石井):深夜ラジオにどっぷり浸かったのは、大学生の頃ですね。もともと地元・春日部の男子校に通っていて、3年間学ランしか着たことのないような生活を送っていたんですけど、東京の大学に入ると周りはみんなお洒落だし、たくさん女の子もいるから戸惑ってしまって。サークルにも入れなくて、友達もほとんどできず、「登校拒否」のようになりました。時には、自分の生きている意味を問いただしてしまうこともありました。

そんな時、伊集院光さんや爆笑問題さんのラジオを聴いていたら、学校が楽しくなかったことや、自分たちがいかにダメだったかを隠さず話してゲラゲラ笑っていた。まるで自分に向けて話してくれているようで、「ダメなまま大人になってもなんとか生きていけるんだな」と救われて。そこからラジオに依存しながら、なんとか大学を卒業しました。何も成さずに(笑)。

――大学在学中にラジオ業界を志したわけではなかったんですね。

石井:はい。しばらくは特に目標もなく、就職活動も一切しないまま卒業してニートになりました。本当にちゃらんぽらんでしたね。でも、さすがに親も心配するようになり、これからどうやって生きていこうかと考えた時に、ヒントになったのは二人の兄の存在です。彼らは多少生活が苦しくても、「アート」と「考古学」という自分の好きなことを突き詰めて仕事にしようとしていた。自分もそうなればいいのではないかと考えました。

じゃあ、自分の好きなことは何か。それは「ラジオ」と「お笑い」しかないだろうと。それから放送の専門学校に通い、バイトもするようになり、初めて「ちゃんと生きよう」と思えた気がします。

自分にしかできない仕事上の役割を作り出す

――専門学校を卒業後、ニッポン放送系列のラジオ制作会社「サウンドマン(現ミックスゾーン)」に入社されます。やはり最初から「お笑いラジオ」の制作に携わりたかったのでしょうか?

石井:はい。それが最初の目標でした。でも、入社して半年は希望する番組につく機会はまったくなかったですね。というのも、当時のオールナイトニッポン(以下、ANN)ではお笑い芸人がパーソナリティーを務める番組が「ナインティナインのオールナイトニッポン」「オードリーのオールナイトニッポン」くらいで少なかったんです。当時のANNは新人や若手のスタッフにとってハードルが高い番組で、ADとして一人前になるまで関わることもできませんでした。

――希望を叶えるためにどんなことをしましたか?

石井:まずは徹底的に先輩ディレクターの真似をしました。AD時代は、いろんなディレクターの下について仕事をするんですけど、どの動きがどう番組に影響するのか観察したり、誰かが怒られていれば知らんぷりせずに自分ならどうするか考えたり、常にアンテナを張っていました。

それと、ナインティナインのANNとオードリーのANNの両番組は、どちらも宗岡芳樹さんというディレクターが担当していました。だから、宗岡さんにくっついていこうと。最初はなかなか相手にしてもらえませんでしたけど、それでも「お笑いラジオをやりたい」と言い続けていたら、宗岡さんの下についていた先輩ADのビーチ(鈴木賢一)さんが“課題”を出してくれました。

ジングル(放送の合間に流れる短い音楽)を50個作るとか、番組のBGMを考えるとか、ビーチさんの雑用みたいな感じでしたけど、すべて断らずに引き受けて。最終課題は「ANN ぶっとおしライブ」という、1週間ぶっ通しで音楽ライブをやる番組のADでした。毎日すべてのジングルやSE(サウンドエフェクト)を用意するなど、必死でやれるところを見せた結果、オードリーのANNのADに推薦してもらうことができたんです。

――念願のお笑いラジオ。実際に入ってみてどうでしたか?

石井:とにかく「なんとか外されないように」と必死でした。そのためには番組の役に立たないといけない。でも、オードリーの番組って基本的に若林さん、春日さんのトークを軸にアドリブで進行していくので、しっかり打ち合わせを行うわけでもないし、下手をするとADが何もやることがないまま終わってしまうんです。特に、当時のチームは良い意味で緊張感のあるチームで、「石井は良いやつだから使おう」みたいな馴れ合いは皆無。仕事で結果を出すしかありませんでした。

最初は「いっぱい笑う」ことくらいしかできませんでしたが、いつしか番組のエンディングで流す「ハイライト」の編集を任されるようになりました。その日の生放送でハネたフレーズを切り出し、ラスト2分間のエンディングテーマにのせて流すというものです。そこで、僕はひとつのフレーズだけでなく、面白かったところをつなぎ合わせてみた。すると好評で、毎週それをやることになりました。

また、「チャレンジ」という、主に春日さんが言い間違いをした時などに若林さんが該当部分の録音を聞き返して確かめるくだりがあるのですが、これも若林さんからリクエストがあったら即対応できるようにしていました。そうやって自分の仕事上の役割を自分でつくり、その仕事のクオリティを他の誰にもできないくらいまで高めて、なかなか自分を外せない状況を作ることを意識していたと思います。

自分には才能がない。だから全部やる

――その後、ディレクターへとステップアップされていくかと思います。ただ、石井さんは著書『アフタートーク』で自分には「ディレクターの才能がない」と書かれています。そう思うようになったきっかけの出来事はありますか?

石井自分にディレクターとしての才能がないことは、ADの段階から感じていたと思います。先ほど先輩ディレクターの真似をしていたと言いましたが、同じようにやっても先輩が10分でできるようなことが、自分がやるとその何倍もかかってしまう。

ハッキリ自覚したのは、入社3年目に「アルコ&ピースのオールナイトニッポン0」のディレクターを担当することになった時だと思います。この番組はそもそも宗岡さんが立ち上げて、単発の放送を3回やりました。その後、レギュラー放送になる時にシフトの関係で僕が担当することになったんです。でも、宗岡さんと同じようにはまったくできなかった。

――特に宗岡さんとの差を感じたのは、どんなことですか?

石井:もう初回の打ち合わせから絶望的な差を感じましたね。レギュラー放送の第一回目は宗岡さんも打ち合わせに参加してくれて、作家の福田(卓也)さんと僕の3人で番組ラストのオチについて話し合っていました。その時、僕が何も言えないのを横目に、宗岡さんと福田さんはどんどんアイデアを形にしていっていて、とてもこんなことはできないなと。

あとは、人とのコミュニケーションですね。宗岡さんが言えばすんなり伝わることも、僕だとそうはいかない。それどころか、嫌な伝わり方をしてしまうこともありました。一度、アルコ&ピースのお二人に宗岡さんと同じようにコミュニケーションを取ってみたら、あとで宗岡さんから「二人に上から言い過ぎだよ」と注意されてしまったことがあって。

宗岡さんって「テニスサークルの代表」だった人なんですよ。普段の会話から面白いし、楽しい空気を作る。あの人がいるだけでチームが明るくなるんです。そういうものもひっくるめて、ディレクターとしてのセンスがずば抜けていました。自分は性格が暗いし、面白いアイディアがすぐに出せるわけでもない。いくら努力してもその差は永遠に埋まらないだろうなと思うようになりました。

『アフタートーク』の書影写真

ラジオへの情熱と志を綴った著書『アフタートーク』(KADOKAWA)

――自分に才能がないことを受け入れるのは簡単ではないと思います。そこからどのように気持ちを立て直されたのでしょうか?

石井:落ち込む瞬間もあったと思いますけど、もともと自己評価が高かったわけでもなかったですし、とにかく人の2倍も3倍も、頼まれた仕事は断らずに一生懸命やるしかないなと気持ちを切り替えました。どれが自分の糧になるか分からないから、すべてをやって経験として蓄積し、次の仕事へつなげる。そのとき、準備反省は必ずしました。正直、もともと才能のある人だったら必要ない部分もあったと思うので「面倒くさいな」と感じることもありましたけど、才能がないなら準備に時間をかけるしかない

それと、AD時代には各現場のやり方をまとめたマニュアルを自分の中でつくっていました。例えば、音楽をかけるときの音響さんへの伝え方一つ取っても、口頭で言うのか紙に書くのか、伝えるタイミングも全然違う。そういう細かい違いも含め、何人ものディレクターのやり方をトレースしていくと、たとえ自分に突出した能力はなくても、それぞれの良いところを取捨選択できるようになるから、どの能力もバランス良く伸びていく。結果的に、どんな番組でも平均点を出せる「無色透明型」のラジオディレクターとして重宝されるようになりました。

しかも、そうなると関わる番組も自ずと増える。ピークの時にはディレクターとして週6本、年間300本以上の放送を担当していました。やっぱり、ディレクターとして成長するためには「どれだけ失敗できるか」が大事になってくると思うので、現場に立つ機会を増やせたことは大きかったと思います。

ラジオを続けることがリスナーの救いになる

――先ほど「無色透明型」というお話もありましたが、石井さんは「仕事で自分の本性を出す必要はない」と語られています。昨今、仕事に「自分らしさ」を求める風潮のようなものもあると思うのですが、石井さんはどのように今の考えに至ったのでしょうか?

石井:自分の色を出してものすごい面白いものをつくれたらいいんですけど、自分の場合は才能もないし、自分らしさは邪魔だなと思ったんですよね。もちろん、時と場合によりますけど、ディレクターとしてはパーソナリティの個性を引き出すことのほうが大切だと思いますし、そこで自分らしさを押し付けても意味がないなと。だから仕事上は自分の本性は切り捨てて、ある意味で仕事のスイッチを入れるように進めるほうが自分には合ってると思ったんですよね。

――ただ、著書では就職活動のときの履歴書に「日本一のディレクターになります」と書いたと紹介されていました。当時は、自分の色を出した番組をつくりたいなどの気持ちもあったのではと推察するのですが、いかがでしょうか。

石井:いや、馬鹿だったんでしょうね(笑)。でも確かに最初のうちは、ディレクターは面白い企画をつくることこそ仕事なんだって思う部分もあったかもしれない。ただ、実際のラジオの仕事ってディレクターが1から企画を立てることのほうが珍しいぐらいで、営業部や編成部、放送作家発信のものも少なくないんですよね。

それに、実際に番組について仕事をしていくうちに、自分自身が「こうなりたい」っていうよりも、とにかく好きなことに関われていることのほうが重要だし、「番組を続ける」ことが一番の目的だなと思うようになりました。やっぱり、自分の原動力はラジオに救われたから恩返ししたいという気持ちなので、そのためにやれることは何でもやろうと。

「オードリーのオールナイトニッポン~むつみ荘から最後の生放送~」が第57回ギャラクシー賞選奨に選ばれたときの写真
「オードリーのオールナイトニッポン~むつみ荘から最後の生放送~」が第57回ギャラクシー賞選奨に選ばれたときの様子

――そうした気持ちの変化は、何かきっかけがあったんでしょうか。

石井:2016年にアルピーのANN0が終わってしまったことだと思います。どんなに面白くて人気があっても、番組改編のタイミングで決定権を持つ人が「つまらない」と言うだけでアッサリ終わってしまうこともある。当時はすごく責任を感じましたし、そのことが分かってからは、そういう人たちをいかに納得させるかを意識するようになりました。

どうしても、「面白い」「面白くない」は主観になってしまう部分があります。だから、聴取率やイベント開催時の集客数をまとめたり、「こんな人が面白いと言っていた」とか細かい情報もかき集めたりして、客観的な資料を会議に提出するようになりました。あとは、なにかの番組が終わりそうになったときに、「アルピーみたいにTBSラジオに行ってもいいんですか?」と駆け引きしてみたりとか(笑)。周りからはうるさいやつだなと思われるかもしれないけど、面白い番組を続けることがリスナーを救うことにもつながるはずですから。

いつか「好き」と「適性」がマッチする日がくる

――石井さんは2020年にミックスゾーンを退社し、ニッポン放送へ移っています。同時にラジオ制作の現場から離れ、現在はプロデューサーとしてラジオ関連イベントなどを手掛けているそうですね。ディレクターとして番組制作から離れることに葛藤はありませんでしたか?

石井:それが、意外となかったんです。辞める前は寂しくなるかなと思いましたが、実際に一つずつ現場を離れていく時には、解放されていく気持ちのほうが強かった。その時に、いかにそれまで自分に負荷がかかっていたかを実感しましたね。ディレクターという、自分に向いていない仕事を誰よりも多くの番組でやっていたわけですから当然かもしれませんが。

もちろん、番組を作るのは楽しいし、今もサトミツさん(どきどきキャンプ・佐藤満春)と若林さんのAmazonオーディブルのポッドキャスト「佐藤と若林の3600」のディレクターをやったりもしています。ただ、プロデューサーという立ち位置のほうが自分には向いていると感じるんです。

――具体的にどういった点で向いてると感じるのでしょうか。

石井:先ほど自分は「無色透明型」と言いましたけど、それでもディレクターとして懸命に働くなかで、関係各所との調整だったり、全体像を見てアドバイスしたりすることは得意かもしれないなと気付いたんですよね。今はイベントの企画で携わる方もさらに多いので、自分の長所を生かせている実感はありますね。

――AD時代に先輩ディレクターの仕事のやり方を徹底的に真似したり、マニュアルをつくったりしたからこそ、ご自身の長所にも気付かれたのかもしれませんね。

石井:確かにそうかもしれません。最近、著書を読んでくれた知り合いの若い人から「自分はここまで徹底的に仕事と向き合えていないから落ち込みました」と声をかけてもらったんですけど、正直脅すような本でもあると思うんですよ(笑)。

身も蓋もないかもしれないけど、理想と現実のギャップに悩む暇があったら、とにかくやればいいじゃんと。そのためには、一見すると無駄に思えることもとりあえずやってみる。そうすれば、自分なりのやり方や長所も見えてくるんじゃないかなと思います。

僕自身もディレクターには向いていなかったけど、ラジオが好きだったから必死でもがきました。そうしたら、今では自分に向いていると思える仕事で、好きなラジオに関わることができています。まあ、10年かかっちゃいましたけどね。

でも、どんな仕事だって一人前になるには10年くらいかかるんじゃないかな。少なくともそれくらいは必死こいて頑張らないと「好き」と「適性」がマッチしてこない。今振り返ってみると、そう強く思いますね。

取材・文:榎並紀行(やじろべえ)