「30代、スキルなし、経験なし」からのブレーク。平野ノラさんに学ぶ、自らチャンスを作り出すスタンス

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<プロフィール>
平野ノラ:1978年、東京生まれ。2014年に、赤のボディコンに身を包み、携帯電話を提げた「バブリー芸人」としてブレイク。結婚・出産を経て、現在もテレビやラジオなどで幅広く活躍中。
Twitter:@hiranonora
Instagram:@noranoranora1988


お笑い芸人の平野ノラさんが芸人の道を歩み始めたのは31歳の頃。オーディションでの惨敗を機に一度は諦めた道でしたが、お笑いの思いを捨て切れず、再チャレンジに踏み切りました。

周囲は年下だらけ。ピン芸人としての経験もスキルもない。そんな状況のなか、平野さんは貪欲にチャンスを作り出し、作ったチャンスを確実に結果へ結びつけることで見事ブレークを果たしました。

今回、平野さんにこれまでのキャリアと、チャンスに対する考え方を伺いました。「チャンスは巡ってくるものではなく、作るもの」というスタンスから、私たちが学ぶべきことは少なくないはずです。

オーディションでのダメ出しに心折れた20代の頃

――31歳から芸能界でのキャリアをスタートさせた平野さんですが、実は20代の頃から芸人志望だったそうですね。

平野ノラさん(以下、平野):はい。ただ、25歳で一旦諦めてしまいました。その直接的な引き金になったのは、ワタナベ(エンターテインメント)のライブのオーディションでした。初めてピン芸を披露したのですが、審査員に「芸人、向いてないんじゃない?」とダメ出しをされ、心が折れてしまったんです。当時はまだピン芸人として生きていく覚悟が定まっていなかったので、ダメ出しをしっかり受け止めることができなかったのだと思います。

平野ノラさん記事内写真

オーディションを受ける前の3年間くらいは、お笑いライブを巡ったり、いろんな人と会ったりして、ずっと相方を探していましたが、なかなかできず……。

10代の頃は「25歳くらいまでに何かしら芽が出ているだろう」と考えていたのに、いつになってもスタート地点にすら立てない。そんな時、藁をもすがる思いで受けたオーディションの結果がボロボロだったことで、もう無理なのかなって。

――芸人を諦めた後は、どうしていましたか?

平野:しばらくフリーターをして、派遣から就職して会社員になりました。自分にはどんな仕事が向いているんだろう、と模索するなか、宅建の資格を取り、不動産会社の営業も経験しました。でも、営業の仕事にはそこまで夢中になれませんでした。お笑いに代わる、情熱を傾けられるものが欲しかったけど、仕事でそれを見つけるのは難しかった。だから、絵を描いてみたり、色彩の勉強をしてみたり、一人旅に出たり、いろんなことに手を出して。気づいたら周囲がモノで溢れて、自分の部屋がめちゃくちゃな汚部屋になっていました。生活も荒んでいって、当時は昼夜逆転の引きこもり状態でしたね。

――「お笑いをやりたい」という気持ちはまだ残っていたのでしょうか?

平野:もちろん。でも、一旦諦めた私のような人間が、おいそれと戻っていいような場所ではないだろう、と。変に真面目に考えすぎていたというか、そう思い込んでしまっていたんです。「お笑いをやりたい」という気持ちに蓋をして悶々と過ごし、当時はお笑い番組も直視できませんでした。それでも会社に向かう満員電車の中で、なぜか『爆笑レッドカーペット』でネタを披露している自分の姿を思い浮かべてしまうんです。その度、「今日も一日ゾンビみたいに働くのに、何を考えているんだろう」って。自然と涙が出てくることも多くて。20代は自分にとって地獄のような時期でしたね。

思えばこの頃は、チャンスは外からやってくるものだと思い込んでいたし、いつも外に幸せを求めていた気がします。

やりたいことを手放したら、最後にお笑いが残った

――そんな地獄のような日々から好転していくきっかけは何だったのでしょうか?

平野:汚部屋を片付けはじめたことです。すると、手を出しては途中でやめた、いろんな“残骸”が出てきました。例えば、「絵が好きだから色の資格を取ろう」と思って買った教科書。そんな、モノにならず中途半端に終わったアレコレを思い切って捨てていったら、最後に「お笑いをやりたい」という気持ちだけが残った。お笑いだけは、心の火種が消えていなかった。これはもう、やるしかない。このままでは死んでも死にきれないと思いました。

――当時は20代の後半でしょうか。一般的にはキャリアや人生が徐々に安定してくる年齢ですが、そこで思い切ったキャリアチェンジをすることに、年齢的な不安はなかったですか?

平野:当時すでに31歳でしたけど、不思議と不安はなかったです。もう、やるしかない、と腹を括っていましたから。それに、どん底を経験したことで、昔とは考え方が変わっていました。20代の頃は「どうしたら成功するか」ということばかりを考えていたように思いますが、その頃には「売れる・売れないは関係ない。お笑いをやりたい、という自分の気持ちに応えてあげよう」という感じで、とにかく一歩を踏み出してみようと。ちなみに、賛成してくれたのは母と現在の夫くらいで、あとは全員が反対していましたね。保険のおばちゃんにも「絶対ムリ」と言われました(笑)。

――なるほど(笑)。

平野:それからワタナベコメディスクールに入り、10代の子に混じってネタ作りを勉強しました。無遅刻無欠席で、講義はいつも最前列で聞いて。年下に「ババア」と言われたら、「ババアにババアって言って何が面白いの!(笑)」みたいな風に言い返して。毎日が青春でしたね。

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スクール入学当初の平野さん(平野さん提供)

――とはいえ、30代にもなると、知恵と経験値がある分、頑固になって新しいことを学ぶのに苦労したりしますよね。さらに、お笑い芸人という仕事柄、「真面目になっちゃダメ」みたいな世間のイメージもある。そんななか、なぜ柔軟な姿勢でお笑いに向き合えたのでしょうか?

平野やりたいことの棚卸しとそれまでのすべてを手放して、迷いがなくなっていたからでしょうね。だからこそ、何でも素直に受け止めよう、全身をスポンジにしてすべてを吸収しようと思っていました。

――その時はピンではなく、コンビでの活動を考えていたんですよね?

平野:はい。もともと高校時代にコンビを組もうとしていた友人を誘ってスクールに入学していたので。でも、彼女は2カ月後にスクールを辞めてしまい、コンビは解散。その子が美人だったこともあったのか、解散して私一人になった途端に見向きもされなくなったのは悔しかったですね。今に見てろよ、と。

ただ、その時点でピンでやっていく覚悟が固まっていたわけではありませんでした。

――では、ピン芸人としての「平野ノラ」が誕生したきっかけは何だったのでしょう?

平野:コンビを解散した直後にあった、スクール生の初ライブです。先生からは「解散したし、出ないよね?」と言われたのですが、自分だけが初舞台を踏めなかったら同期に大きく遅れをとってしまう。かといって、別の相方を探す時間もない。ここでまた、“ピンになるか問題”が出てくるんですよ。20代はそれで挫折をしているだけに不安でしたが、逆にここで勇気を振り絞り、一人で舞台をやり遂げることができれば、この先もし相方が見つからなくても、また解散することになってもピンでやっていける強さを持てるはず。そう思い、先生と交渉して舞台に立ち、なんとか3分間の出番を全うすることができました。ピン芸の作り方なんて知らなかったけど、意外とウケましたし、舞台の上で自分を出すこともできたと思います。自分のトラウマというか、過去のダメさを克服できたような感覚がありましたね。

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――ピンチを見事チャンスに変えられた、と。それでも、ピン芸人の経験がない状態で、よく舞台に立つ決断ができましたね。その場で、どんな芸を披露したんでしょう?

平野:シスターのキャラを演じました。仲の良い同期に自分のイメージを聞いて「神妙な趣があるから、それを生かしたほうがいい」と言われたので。

余談ですが、それからは同期に自分の印象をめちゃくちゃ聞くようにしています。例えば、ラーメンを食べる時、ちっちゃいレンゲに少量乗せて食べそうとか。焼酎飲んでそうとか。周りに聞いて、まったく自分に合ってないイメージのキャラはやらないようにしていました。

思い返せば、そういう俯瞰の視点は、ネタにツッコミや説明が入らないピン芸人にとって、なくてはならないものでした。やりそうなことをやりそうな人がやっていないと、お客さんも混乱するし、笑いにつながりませんからね。

チャンスは待つものではなく、作り出すもの

――その後、ピン芸人「平野ノラ」として活動を始めます。最初に世に知られるきっかけとなったのは、『芸人報道』というテレビ番組の一コーナー「すぐ言う芸人」だったかと思いますが、どういう経緯で出演が決まったのですか?

平野自分からマネージャーに連絡して「あのコーナーのネタに自信があるので、ぜひオーディションを受けさせてほしいです」と直訴しました。『芸人報道』の「すぐ言う芸人」というコーナーは、何かしらのキャラになりきり、50音の頭文字から始まる言葉をそれぞれ、そのキャラクターらしい言い方で言うというもの。私はこれをすべてバブル用語で言えたら面白いはずだと思って、絶対に出たい、と。

そもそもワタナベだけでも若手芸人は何百人といますから、オーディションの出番が来るのをただ待っているだけでは限られたチャンスしかありません。だから、自分が持っているネタがハマるコーナーはないかと、バラエティ番組を常にチェックしていたんですよね。

――非常に前のめりな姿勢ですね。

平野:オーディションに参加できることになってからは、生活のすべての目に入るものの頭文字の50音をバブルネタに変換して、50音のどれを振られても対応できるようにトレーニングしました。

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バブルネタ衣装を着ている平野さん(平野さん提供)

――そうした入念な準備も実り、平野さんの芸は大きな話題を集めました。

平野:おかげさまで『芸人報道』にはその後も、バブル以外のキャラを含めて3回出演できました。実は、初出演の時から「この一回限りではなく、次も絶対に声をかけてもらおう」と意識していました。本番で結果を残しながらも、スタッフさんに「(バブル以外に)こんなネタもあるんですよ」と前振りしておくようにして。すると、次も呼んでもらえたり、別のオーディションの話をもらえたりする。そこでまた、しっかりと期待に応えることで信頼関係を作る。とにかく一発で終わらないために、そんなことを常に考えていました。

――チャンスとは自然に巡ってくるものだと考えてしまいがちですが、平野さんの場合は自発的にチャンスを引き寄せているように感じます。

平野:そうですね。初ライブの時と同じで、チャンスは待つものではなく、自分から作り出すものだと思っていました。そして、そのチャンス一つひとつに全力で取り組み、一つずつ紡いでいく。

考えてみれば、第一線で活躍している芸人さんたちも、そうやって上り詰めていったんだろうな、と。昔はそういうことが分からずに、テレビに出ている人は「いきなり売れるものだ」と思っていたんです。でも、実際は多くの人が下積み期間のなかで決して多くはないチャンスをモノにしてそこにいる。20代の頃はすぐに結果が欲しくてそんなふうに考えることはできなかったけど、30代以降は「すべてはチャンスに変えられるから」と、うまくいかない日々も決して無駄ではないと思えるようになりましたね。

“バブルキャラの次”を考えて、先手を打つ

――バブルキャラが脚光を浴びたことで、さまざまなテレビ番組に出演されますが、その頃からすでにバブルキャラだけでない次の打ち出し方を模索していたそうですね。

平野:バブルキャラでいろんな番組に呼ばれるようになった頃から、この先もずっとテレビに出続けるにはどうすればいいかを考えていました。バブルキャラはそのインパクトゆえにイメージが固定されてしまいます。場面によってはバブルの衣装やメイク、大きな携帯電話が足かせになってしまうこともある。例えば、感動的なVTRを見るような番組で、この出立ちは明らかに場違いじゃないですか。自分の武器が、逆に自分の可能性を狭めてしまうのではないかと。

――ただ、それこそ“一周目”はバブルキャラで回り、年齢を経て落ち着いてから変えていけばいいような気もしますが。

平野:一周回りきってテレビ出演が減ってから変えても、誰にも見てもらえないので、露出があるうちに新しい姿も出していかないといけない。ただ、いきなり大きく変えすぎると見ているほうが混乱するし、スタッフさんのオーダーに応えられなくなってしまいます。だから、少しずつ変えていきました。バブリーの外枠はそのままで、ちょっとずつ肩パットの綿を抜き、まゆげやアイシャドウのメイクも微妙に薄くして。衣装も真っ赤なジャケットだけでなく、赤チェックやピンクなども着るようにしました。同じバブルでも番組に合わせて対応できるよう、幅を持たせてみたんです。

また、ネタの内容も大きな携帯電話を持って「しもしも」と言うだけだと飽きられてしまうから、平野ノラはこれ以外にも面白いことができるんですよ、ということを露出があるうちにお知らせしておかなければいけない。だから、ある時ついに電話を持たずにバラエティ番組に出たんです。

――それは思い切った決断ですね。番組側の反応はいかがでしたか?

平野:スタッフさんとの打ち合わせではやっぱり、電話のネタを求められました。でも、「電話、もう持っていないんですよ」と。当然、向こうは「えっ?」と戸惑いますが、そこで「大丈夫です。それに代わる面白いネタを用意しておきます」と言い、なんとか了承してもらいました。これもある意味チャンスを作っていますよね。そう言ったからには結果を出さないといけないのですが……。

もちろん、代わりのネタがスベることもあります。でもそれを含めて生き様や人間味が出る。何よりチャレンジしてますよね。バブルキャラの女、じゃなく「平野ノラ」ってこういう人だよ、とお茶の間にお伝えしなければならない。自分の中でそんな戦いをしながらテレビに出ていました。

――実戦でいろいろと試していくことで、タレントとしての引き出しも増えそうですね。

平野:そうですね。この頃は、自分のイメージを変えていくためにあえてチャンス(機会)を作り出す、という思いで動いていましたね。

そうこうしているうちに、バブルの要素を一切なくした、下着モデルの仕事のオファーをいただいたんです。そこからはバブルキャラとそれ以外のキャラを行き来できるようになり、場合によっては「60%バブル風味で」といったリクエストにも応えられるようになりました。

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「本気になったら」すべてがチャンスに見えてくる

――ここまでチャンスの作り方をお伺いしてきましたが、すでに触れていただいた通り、そのためには退路を絶つ覚悟や入念な準備も必要かと思います。平野さんはよくイメージトレーニングをやられるそうですが、その部分と関係があるのでしょうか。

平野:そうですね。私にとってイメトレは、覚悟を決めたり、準備をするうえで欠かせない習慣です。例えば、やりたい仕事を手帳に書いてみる。文字にすると想像が具体化して、行動に移しやすくなるんです。心なしか、イメトレをした後に臨んだことで失敗は少なかった印象です。恥ずかしながら、札束の画像をカラーコピーして、部屋に貼っていた時期もあるんですよ。かなり前に破いて捨てましたが。これも「手放して」いますね(笑)。

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さまざまなことが書き込まれた平野さんの手帳 ©︎水野昭子(講談社「共働きwith」掲載)

――ムダなモノをそぎ落としてゴールを決めて、イメトレでそれに向けた準備をする、というイメージなのかもしれませんね。では最後に、これまでのご経験をふまえ、「チャンスを作り、そのチャンスを掴み取るために必要なこと」を教えてください。

平野:昔、とあるCMで「本気になったらすべてがチャンスに見えてくる」っていうキャッチコピーがあったんですけど、これは本当にその通りだなと思います。いろいろとご紹介してきましたが、最後は覚悟を決めることが何より大事だと思います。私自身、「売れてやるぞ!」と本気になった瞬間から明らかに考え方が変わりました。「いつも視聴者として笑って見ていただけの番組に出るにはどうしたらいいか?」と考えるようになり、出演するためのイメトレと準備が始められましたから。

――平野さんのように30代でそのことに気づいても、決して遅くはない。

平野:そう思います。一度お笑いを諦めてくすぶっていましたが、一旦どん底に落ちて、30代で初めて本気になれた。

芸能界に限らずどんな世界でも、言い訳をせずに目の前のことをすべてチャンスに変えていく、という気持ちで行動することが大切だと思います。20代の頃の私みたいに、やりたいことがあるのに一歩も前に進んでいないように感じられたとしても、何かしらできることがあるはずですから。

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【新刊情報】
平野さんの初の著書『部屋を片づけたら人生のミラーボールが輝きだした。1日15分のノラ式実践法』(KADOKAWA)が発売中。

取材・文:榎並紀行(やじろべえ)
撮影:小野奈那子