誰かと働くために“倫理観”は必要ですか? ドキュメンタリー監督・上出遼平が考える「ズル」のリスク

上出遼平さんトップ画像


「ズルはダメ」

そんなことは分かっているけど、忙しく働く日々のなかで、「ズルしてラクしている同僚が羨ましい」とか「ちょっとくらいズルしてもバレないかな」とか、“ズルの誘惑”に負けてしまいそうになることもあるでしょう。

それでもやっぱり「ズルはダメ」と訴えるのが、世界各地のギャングや兵士など危険な仕事をして生きる人々を切り取ったドキュメンタリー番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を手がけた、映像ディレクターの上出遼平さん。

2024年の著書『ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方』(徳間書店)では、

「短絡的思考しか持てない人にとっては依然としてズルの効能が魅力的に見えてしまう」

など、ズルについてさまざまな角度から語られています。それにしても、しぶとく、賢く生きる人々を取材してきた上出さんが、ある時には「サバイブの手段」とポジティブに捉えられがちなズルに否定的なのはなぜでしょうか? そこで上出さんにズバリ、聞きました。

ズルってどんなリスクがあって、ズルしない人にはどんなメリットがあるんですか? 

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上出遼平さんプロフィール画像
上出遼平(かみで・りょうへい)さん。1989年、東京都生まれ。テレビディレクター・プロデューサー。早稲田大学を卒業後、2011年に株式会社テレビ東京に入社。2017年にスタートした『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズの企画、演出、撮影、編集など、番組制作の全過程を担う。ポッドキャスト番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート no vision』、POPEYE、群像など連載多数。

ズルの先にあるのは「ひとりぼっち」

──ドキュメンタリー監督として、虚構のないリアルを切り取り続けてきた上出さん。著書『ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方』のなかで「ズル」についてたびたび言及しており、「ズル」に対して一家言ある気がしています。

上出遼平さん(以下、上出):書籍のなかだけでなく、いろんな場面で言葉を変えながら言い続けていることが、「ズルしないようにしようぜ」なんですよね。たぶん、「倫理的であろうよ」と言いたいんだと思います。

上出遼平さんインタビューカット

──ズルしない=倫理的である、と上出さんは考えている?

上出:そうですね。ここで言う「倫理的」とは、「集団を円滑に動かして、存続させていくための姿勢」であり、僕はそれに反する行為がズルではないかと思っているんです。

──例えば、会社のなかではどういう行為が「集団を円滑に動かすことに反する」と言えるでしょうか。

上出:分かりやすい例を挙げるなら、「横領」。

なぜ人間が横領をするかというと、自分にメリットがあるからですよね。でも仮に、自分以外の誰かも横領して、横領する人が10人にも20人にも増えたらどうでしょう?「この会社いよいよヤバいんじゃないか、潰れるんじゃないか」と誰しも不安に感じるでしょうし、実際そうなるでしょう。

もうひとつ例を挙げるなら、「雑魚作業の押し付け」。仕事のなかには、「なんで自分がこんなことをやらないといけないんだ」と無駄に感じる作業もありますが、僕はそれを「雑魚作業」と呼んでいます。もし、その雑魚作業をみんなが誰かに押し付けたら、仕事が進まなくなって、その組織は揺らぎますよね。

上出遼平さんインタビューカット

このようにズルというのは、組織の円滑な運営を妨害する行為ですから、ズルをやり続けると組織から排除される可能性も高まります。例えば自分以外の誰かがその行為をしていたとすれば、あなたはその人間に組織から出ていってほしいと思うわけです。つまりズルをするということは、自分を「その集団や組織にとって好ましくない存在」にしていくということです。

だからズルの先にあるのは「ひとりぼっち」です。つまり、ズルしない、倫理的である、というのは誰かと共にあるための指針と言ってもいいですね。

「倫理観の範囲」を無視すれば、業界やカルチャーのパワーダウンにつながる

──ズルのリスクについてはよく分かりましたが、「横領」や「雑魚作業の押し付け」以外に、何が倫理的でない行為(=ズル)に当たるのか、正解が無限にある気がして曖昧です。

上出:「これはズルで、これは倫理的な行為である」のように、一つひとつを条文化するのは困難です。「正義」が不確かなものであるのと同じように、「倫理的」とはどういう態度のことか具体的に定義づけできません。

なぜなら倫理観というのは、その人の所属するコミュニティやその人の持つ視野の広さによって、その“範囲”が変わるものだから。

上出遼平さんインタビューカット

映像業界を例に考えてみましょうか。「YouTubeで何がなんでもインプレッションを稼ぐぞ」と張り切っている集団がいたとして、目的を達成するために、他人の車をボコボコに壊したりするような動画を企画しているとします。でもそれって、自己利益の最大化を追求するその集団の内部にあっては正しい発想なわけですよね。それを企画した社員は、その会社で表彰されてもおかしくない。そのくらい、その社内では“倫理的”に見えるでしょう。

だけど映像業界全体、あるいは社会全体まで視野を広げた時に、「他人の車を壊すことがエンターテインメントになる」という価値観が広まることは、まったく好ましくない。それをやっている組織は、同業の他社から「自分たち業界の印象を悪くする存在」と見なされ、業界のなかで淘汰されていくでしょう。視野を少し広げれば、一見倫理的だったものが実はそうではなく、業界内での会社の存続に悪影響を与えていた。これは結果として、“(その行為や会社は)倫理的でなかった”と評価することができるでしょう。

──倫理観とはコミュニティを円滑に動かす態度ではあるけど、コミュニティの利益だけを追求すると、結果的に自分たちの存続可能性を下げてしまうというジレンマがあるんですね。

上出:コミュニティ内ではみんな同じ方向を向いているけれど、もう一段階広い視野でそのコミュニティを眺めた時、倫理観の範囲の狭さによって自分たちとは異なる倫理観を持つ集団に害を与えてしまい、結果としてその業界やカルチャーのパワーを落としてしまっているケースは少なくないように思います。

上出遼平さん記事グラフィック
「倫理観の範囲」の概念図

──同じコミュニティ内にいるとそもそも倫理観の狭さに気づけなかったり、たとえ気づいていたとしても先輩や上司の誘いを断れなかったり(上下関係に巻き込まれたり)という状況に陥ることもあると思います。「意図せず、ズルに手を染めてしまった」とならないために何に気をつければいいでしょうか?

上出:もし、ズルしないためにどうしたらいいのかと相談してくる人がいるとしたら、その人は、自分が大切にしている指針がぼんやりと分かっているはずなんです。考え方を反転させて、どういう人に隣にいてほしいかを考えればいいと思います。

例えば友人と中華料理店に行って、お会計の時、食べたはずの餃子の料金がお代に含まれていなかったとする。店員さんに正直に言うのか否か、行動がわかれると思います。他者の損害をよしとせず、フェアな選択をする人と、我々は一緒にいたいと思うのがふつうだと思います。

実は、ズルをしないようにするにはどうしたらいいのか? と考える必要はあまりなくて、「隣にどんな人がいてほしいか?」を考えると、自ずと自分がなりたい人がわかってくるんだと思います。

あえて「部外者」であり続ける意味

──翻って考えると、組織の倫理観とは異なる倫理観を自分のなかに持てれば、先回りして組織の危機を知らせたり軌道修正したりできる存在として、自分の存在価値を高めることができるんじゃないでしょうか。

上出:そうなんです。認知している世界の広さと何がズルかを考えられる範囲は、比例すると思っています。

他人のモノを盗むことが当たり前の世界で生まれ育った人に、「モノを盗りあう社会は滅びてしまうよ」と忠告できるのは、一度外に出て戻ってきた人間か外から来た人間でしょうから。

──知らず知らずのうちにズルと見なされる行為に手を染めないため、そして、組織にとって価値ある存在になるために、倫理観をどう広げていけばいいのでしょうか。

上出:若い世代には、「旅をしよう」と伝えたいですね。自分のなかの当たり前を「当たり前じゃないかもしれない」と疑う経験をどれだけたくさんできるかが、自分の世界を広げることに直結すると思うので。

もちろん、本を読んだり歴史を学んだりすることもひとつの旅だとは思いますが、自分の生きている世界とは異なる倫理観で回る世界が存在することを肉体で知る機会を持つことが、自分の倫理観を広げる出発点になると思います。

上出遼平さんインタビューカット

また、僕自身はあえて“部外者”でいることが多いなって、こうやって話しながら思いました。部外者とは、あるコミュニティにとって外から来た人、のことです。

自分が部外者として参加した場で、「それって数年後に自分たちの首を締めませんか?」なんてことを思うけれど、中の人たちは僕が懸念していることに気づいていないケースがよくあるんです。そういう意味で、組織に対しては、「組織を活性化させるために部外者を呼び込もう」と伝えたいですね。

僕が部外者でいることが多い理由は、それが自分自身の価値を高めてくれると思っているからですが、若いビジネスパーソンにいきなり「部外者になろう」と言いたいわけではありません。他のコミュニティから見て価値ある部外者になるためには、まずは自分自身が何かのプロフェッショナルになることが大切。そうでなければ、いろんな場に顔を出してもただの“便利屋さん”になってしまうし、互いにメリットがないので。

「悪いことすんなって言ってんじゃないの。ダサいことすんなって言ってんの」

──ズルのリスクと、倫理観をアップデートさせることによるメリットも分かったのですが、それでも、「日々の仕事がしんどくてズルの誘惑に負けそうだ」という人はどうしたらいいでしょうか。

上出:ズルの誘惑に勝つためには、自分の指針を一個持てるかどうかが大切だと思います。ドラマ『IWGP(池袋ウエストゲートパーク)』で窪塚洋介さん演じるキングが言うじゃないですか、「悪いことすんなって言ってんじゃないの。ダサいことすんなって言ってんの」って。あれが、すべてです(笑)。

上出遼平さんインタビューカット

正義や倫理観やズルと同じで、「悪いこと」もそのコミュニティによって変わるもの。とにかく揺らぐものなんです。でも、「カッコいい」は自分のなかの信念みたいなものだから、揺らぎにくい。自分が信じていることや、大切にしていることをベースとした行動原則が、「カッコいいこと」だと思います。

例えば、「自分はこのファミリーが大切だ」と分かっていれば、ファミリーの安全を脅かす行為は自然としないようになる。自分の行動が大切なものを害するかもしれないって思えたら、ズルはしなくなっていく。

──自分の大切なものが「分かっている」ことが重要だと思いますが、一方でSNSが普及しきった社会では、常に他者の目線に晒されている感覚から、「主観を持ちづらい・表に出しづらい」と感じている人も多いと感じます。

上出:自分が本当に何が好きで、嫌いで、何がしたくて、どういう人間になりたいか。そういう物差しを持ちづらくはなっていますよね。

日本を出ると、日本の人たちの物差しのなさを実感します。ファッションでもなんでも、流行り物をみんな一斉に持ち始めたりするじゃないですか。他者の目線を過剰に気にしたり、みんなと同じであることのインセンティブが高過ぎるせいかもしれませんが、間違いなく自分で物の良し悪しを判断する力が鈍くなっているように感じます。

なぜ自分の物差しを持ちづらくなってしまったか、僕は「体験の減少」によるものだと思うんです。ここで言う体験とは、「他者の目線を介さない喜びや、苦しみ」を指します。例えば、パッと入ったラーメン屋のラーメンに「うわっ、死ぬほどうまい」と感じることや、日本のどこかからどこかまでを10時間歩き切ったとき「ああ、自分はこの足でどこまで進めるかが大切で、それをやり切ったときに喜びを感じる人間なんだ」と気づけること。

そういう他者の評価から切り離された肉体的体験の蓄積が、その人なりの物差しをつくっていくと思うんです。

上出遼平さんインタビューカット

今って、情報があまりにも多過ぎて、すぐに「答え」が見つかってしまう。「10時間歩くのなんて意味ないですよね」とか、「10時間歩かなくてもここで電車に乗ればいいよ」みたいに、良くも悪くも、経験する手前で芽を摘まれてしまう部分がある。

そういう意味では、旅は最も不可逆的な体験をもたらしてくれるものだと思うので、自分の価値を高めるために「旅へ出よう」。そこから大切なものが見つかるかもしれません。

取材・文:小山内彩希
写真:長野竜成
編集:くいしん、はてな編集部
制作:マイナビ転職

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